雑記帳

引っ越した

ネイルサロンのおばさん


私は自分のことが好きで、働いている間じゅうずっと自分の爪を見て満足したいのでよくネイルをします。


セルフでもやるんですが、今日は気に入っていてたまに行くサロンの話でもしたいと思います。地下鉄の新宿線沿いにある駅から徒歩3分くらいで到着する。立地はまあまあ、頑張ればJRの駅からも歩ける場所にあります。繁華街を抜けて5階くらいある大きな本屋を右手に見ながら古臭い橋を渡って、横断歩道を渡るとまいばすけっとやら何やらと300円均一の雑な居酒屋が並んでいるのが見えます。向かい側にはベローチェ。この辺住んだらまあなんかご飯には困らなそうだなと言う場所で、さらに路地裏に入ると新旧の中華料理屋がバラバラと出て来ます。


まあ、で、まいばすの通りに入ってしばらく歩くと築30年くらいの少し古びたマンションが出て来ます。


白い壁は所々グレーの汚れだったり擦り跡があって、下の方にだけ茶色いタイルが飾り付けだけのために貼ってある。ポストは銀色に黒ダイヤル。フロント部分の床はこげ茶のタイルばりなんですけどハニカム貼りでなんかやっぱり古めかしい。バチバチ唸る切れかけた蛍光灯はうるさくて薄暗い。しかも一階の裏側が謎の居酒屋(昼は空いてない)なので、少しにんにく匂いが立ち込めて余計に変な雰囲気。


そこのガッタガタいうエレベーターに乗りこんで、丸型で指先くらいの白いボタンを八階で押す。毎度その可塑性の高さに驚く。押した指先ごとどっかに持っていかれそうなそんな感じ。ところでこの形式のエレベーターボタン大好きなんだけど、誰かわかる人いますか。昭和感とフォントの丸っこい感じが大好きで、古いビルに入るときにいつもエレベーターがこの形式でありますようにと祈っています。


話を戻すと八階に着いてガッショオンと扉がひらいて進めば801号室と貼られた部屋札の隣、ドアのど真ん中に「ねいる〇〇」と全部ひらがなで書かれたスケッチブックの切れ端がバァンと出てくる。この時点でわたしはもうめちゃくちゃおかしくて、何度来ても笑いを堪えきれない。面白いな…


ギィ一と音を立てながら開く鉄扉は実際かなり重い。最初来た時は私も本当に後悔した。これから何が始まってしまうのだろうかと。でも開けてみるとオフィスのようなグレーのごわごわしたカーペット張りで白壁紙、白天井が小綺麗な一室が出てくる。



なーんだ、普通じゃんと思って靴をスリッパに履き替えていると、すごすごした様子で淑やかなおばさんが小さな声で呼びに来てくれる。


「こんにちは…」

「はーい、17時から予約してる○○です」


あとは席に着くよう促されて、ガラス張りのテーブルに手を晒して、ネイルのオフが素早く始まって…そんな感じで意外と淡々と施術は進んでいく。特筆したいポイントがいくつかあって、それはこのおばさんがめちゃくちゃ手練れだということだ。削る機械を使っているとはいえネイルオフにかかる時間は15分強。しゅばしゅばと神の手捌きでネイルを剥がし終えると、それはやりすぎなんじゃないかなって勢いで爪の表面を削られ始める。小さい頃にレシートの裏を爪磨きとして使った時に感じた、爪から皮膚まであと少しでスースーするあの感覚をまた味わえます。まあちょっと怖いので「軽くやってください」とか「ちょっと痛いです」とか、簡単に要望を出すと、スミマセンとか細い声で呟いてまた激しい勢いで爪を削り始める。この場所に来ると自分の今までの常識とかなんだったんだろうなあと改めて問うことができるので有り難い。真実なんていつだって軽薄で人を裏切るから、信じてない方が楽なんだよな。棚の上にあるどでかいモニターで流れてるテレビ番組を、首を持ち上げ適当に流し見する。このおばさんは、おそらくあまり日本語が流暢ではない。それなのにも関わらず日本人の客に向けてどでかいテレビで彼女にはわからないバラエティ番組をひたすら流し続けている。


白い部屋の中で削られた爪の粉がふわりと舞ってコンタクトレンズの表面にパラパラ入ってくる気がして、目をキュッと閉じていると「いたいですか?」と弱々しく聞いてくるのだ。「いえいえ、なんともないです。すみません」


私は思う。もしも、この粉が、爪なんかではなく何かとんでもない幻覚を見せる薬だったりしたら…


とんでもなくつまらないバラエティ番組のせいなのか、思考があらぬ方向へカタンと揺れて元に戻れなくなってくる。


ところでこのおばさんの凄いところは、とてつもなくセンスがいいところだ。フォーマルなものもファンシーなものも、少し派手でゴテゴテしたものも、全て統一感ある仕上がりにしてくれる。写真も見せれば一発で再現してくれるのだが、私はこのひとの柔らかく優しい、それでいて明るいカラーの仕上がりが好きなので、色見本だけさしてあとはお任せしてしまう。


オレンジやピンク、暖色が爪に乗っていないとご飯が食べられないなかなか面倒な性質の私だが、ぽつぽつと置かれたラインストーンとシェル、ラメラインでいつも可愛く満足いく姿に仕上げてくれる。一度全く意思が伝わらず想像の5倍くらいの大きさのラインストーンを三つも同じ指に置かれたことがあるけど、落胆したのはそのとき以来ない気がする。あととにかく安い。素材代以外取ってないんじゃないかと思う。シンプルなもので4000円代くらいで凝ったものでも6000円くらい。やっている時間も日によってまちまちで、事前にじっくりと予約可能時間をウォッチしておく必要があるのだ。それを考えるとこのひとはあまりこの仕事で儲けようと言う気もなく、適当にここで暮らしながら小遣い稼ぎのつもりでやっているのだろうかと考えが捗ってくる。何に脳を使ってるんだと思うかもしれないが、本当に店で流れているバラエティがおもしろくないので思考がどんどんエスカレートしていく。


もしかするとこのおばさんは、どこかから来たスパイのエージェントで、日本人は今日もこうだ、とか、日本人の見る番組はまじおもんないし、今日来た客は熱心にそんなものを見てやっぱり日本人は変だ。とか。窓の外から街の風景を眺めては平和な日々にため息をついてみたりとか。マツモトキヨシとか言う訳のわからないネーミングとまばゆい看板に目を細めてしまったりだとか。母国で行われていた激しい情報戦争の中で、唯一安まるのがネイルチップを作ってる瞬間で、今のこの小遣い稼ぎにそれが生きてたりするんじゃないだろうか。だとか。凄い妄想がグングンと広がって私と彼女しかいないこの部屋をもや〜んと包んでいく。あ、こんなに考えちゃってるぞ。勝手にひとのことを妄想するのはよくないな。と手元に目を戻すと、薄いピンク地にラメのフレンチが入ってラインストーンと貝殻のモチーフが両の中指。人差し指と小指には青いホログラムのネイルが施されて全体的に上品な仕上がりになっている。一応はオフィスワーカーの身として、上品であることはとても重要。うんうん、今回もまた完璧だなあ。何度も頷いてかわいい〜と呟く私に、おばさんも少し満足した様子でふふ、と笑っている。なーんだ、こんなに優しく笑ってしおらしくて、エージェントな訳がない。棚に立てかけられてるiPad的なものを使って情報のやり取りをしたり、キャッシャーにある金額の何万倍もの金を金庫に保持してたりなんてしないよな。全く私ってば何を妄想してるんだか。これだから暇な社会人は。


荷物を持ちながら帰り際に奥にあるキャッシャーで支払いを済ませる。ポイントカードも何一つなくて、その場で予約を迫ることもない。こういうドライでありながらさっぱりした関係性であるべきだよな、客とお店っていうのは。知らんけど、まじで知らんけど。


「ありがとうございました〜」

「ハイ、アリガト、ございマシタ」


膝だけをやや屈めてお辞儀をする彼女に向かって少し手を振ってギィギィなる扉を開く。うん。やっぱりなんの変哲もない少し昔の建物だ。やっぱりそんな物騒なことをするひとじゃないに決まってる。やっぱり猫と犬だと犬の方が飼っていそうなタイプだったからそう言う後ろ暗いことはしてな


-この文章はここで途絶えているようだ